マスコミでは、亡くなって久しい作家などに敬称はつけない。歴史的人物の枠に入るわけである。どれくらい過ぎたら「さん」が取れるか微妙だが、せいぜい十数年だろう。しかし、じつに没後35年もたつのに「さん」づけが似合う不思議な人がいる。向田邦子さんだ。 ▼1981年、彼女が飛行機事故で不慮の死を遂げたのは夏の終わりだった。以来、この季節になると繰り返し回顧され、エッセーや小説が読み直され、新たな読者を得ていく。そういうファンもしばしば「向田さん」と呼ぶ。作品だけでなく、その手料理や暮らしぶりまでが世代を超えて愛される「現役作家」なのである。 ▼若い人たちにも向田作品が読まれるのは「胸底に響く言葉の力を有する」からだ――。ノンフィクション作家の後藤正治さんが「オール読物」8月号の特集で、こう指摘している。そうそう、と愛読者はひざを打つはずだ。たとえば出世作「父の詫び状」を読み返すたび、酔っぱらいで威張り屋の父親の姿が胸の底に響く。 ▼「ご不浄」「到来物」「増上慢(ぞうじょうまん)の鼻をへし折られ」……。向田ワールドにはこんな言葉がよく登場するが、昨今はやりの「美しい日本語」ではなく、とても自然だ。戦前の家族を描きながら、決して型にはまった家族主義ではないところも新鮮さを失わぬゆえんだろう。50年たっても「向田さん」は元気であるに違いない。【日本経済新聞】春秋 2016.8.30.